2013年12月22日日曜日

夜明け前




不思議だけど、昔からよくある話。


別々のところで手にした本の、別々のページに、
同じ言葉や文章が書かれているのを発見する。


わたしは集中力があまり持続しなくて、
一冊の本をずっと読み続けるのが辛いので、
同時並行で何冊かの本をちょっとずつ読む、というのをよくやるんです。

通勤電車の中で小説を読んで、
お風呂の中でお風呂用の(濡れてもいいような)軽い本を眺めて、
寝る前に誰かのエッセイを読むとか。

・・・なんて書いたらちょっと読書家っぽいですが、
ちょっぴり読んで、読み終わる前に飽きちゃったりして、
読みかけの本がただたくさんあります。。
途中のページだけ読んで、あと放置、ってことも多いのです。


すると、たまに・・・


「そういうこと」が起こります。


それ自体はお互いに全然関係ないはずの本なのに、
なんで同じことが書いてあるんだろう・・・?
もしくは、なんで同じ人物の話が出てくるんだろう・・・?
というようなことが。

しかも、たまたま開いたページにそれが載っている。
なんでわたしは今このページを開いたんだろう・・・
というようなことが。


たぶん、わたしだけじゃなくて、本を読む人ならば、
経験したことがある人も多いんじゃないかと思うのですが。


最近、「それ」が久々にありました。


別々の人に紹介されて、別々のルートで手に入れて、
別々に読んでいた、元は別々の言語で書かれた本。
ジャンルも違う。
けれどほとんど同じ書き方で、
どちらの本にも載っていたこと、それは・・・


「少年は自分の国の古いことわざを思い出した。
 それは、夜明けの直前に、最も暗い時間がくる、というものだった。」


ことわざにあります。「夜明けの前が一番暗い」と。」


◆◇◆◇◆


もう何年も経ってしまいましたが、自分が学生だった頃、
まあそれなりに、人並みに(?)、
明け方まで飲むようなこともしていました。
サラリーマンが駅の方角に向かって一斉に歩きはじめる頃、
真逆の方向にふらふらと自転車をこいで帰っていく朝もありました。


だから、経験的にわかります。
これ、本当にそうですよね・・・。


夜の明ける直前に、本物の暗闇がやってくる。


季節にもよるけど、夜の3時を過ぎて4時になる間際ぐらい。
窓の外をのぞこうとしても、ただ暗闇が際限なく広がって、
室内にいる自分の顔がガラスに反射されるだけ・・・


そんな時、友達と一緒にいてもふと恐くなって、
ほんとに一瞬だけど、
明るい朝なんて二度とこないんじゃないかと思う。


だいたい、そんな気分になったらもう、
数分後には夜が明け始めるんですが。


風邪をひいた時とも似ている気がします。
ほんとにほんとにしんどくなって、
「ああ、これはもうダメかもしれない。一生治らないかもしれない。」
なんて思うと、
大体次の朝には熱がひきはじめるという、あの感じ(笑)


思ってる時はけっこう本気で絶望してるんですよね。
周りからしたら、
「いや明けるだろ!」
「いや治るだろ!!」
って感じなんだけど、本人わからないんですよね。



もしかしたら明るい未来がすぐ近くまできているかもしれないのに、
見えるのは暗闇だけで、わからないから恐い。不安。絶望。


でもちょっとだけ、信じてみよー。


なにせ2冊の本にも書いてあるくらいだし(笑)
たまには信じてみるのもいいかな・・・と。


もしかしたらこれが最後の暗い時間帯かもしれない。
ちょっとでもそう思えたら、そんな時間すら愛おしく感じられるかも。



これもさんざん言い慣らされた言葉ではありますが、
明けない夜はないから。





かけがえない日々を結ぶように 夜明け前、
街灯はとけながら 見えなくなる
愛されたいという僕ら同士 けれどまだ
力ずくでも笑え
何度となく

長谷川健一/「夜明け前」



2013年12月15日日曜日

真っ白な時間





息を、吐く。

その度に、両足につけられた板がぐわん、と弧を描く。

息を、吐く。

頭が真っ白になって、何も考えられない。
緊張もない。

ただこのスピードは止めない。
絶対に止めるもんか、とだけ決めて、
重力のままに下へ下へと落ちていく。

手の感覚もない。
棒の先が斜面に触れる時、少しの衝撃が身体を刺す。

ゴーグルの端から漏れてくる風が目を突いて、涙が出る。
視界がぼやけて、遠くで私を待っているはずの人たちの姿は見えない。


目に映るのは、ただただ真っ白な景色。


自分の頭の中だけじゃない。
世界そのものが、
時間が、
真っ白になってしまったようだった。


まるで宇宙がその全ての動きを止めて、
今この瞬間には、自分しか存在していないかのよう。


周囲がいやに静かで、
私はこんな状況にも関わらず、なぜかひどく落ち着いていた。


息を、吐く。

吐く息の音。



不意に足場が平らになったかと思うと、突然視界が開けた。
大勢の人がこちらに向かって手を振っているのが目に入る。

一時停止ボタンが解除されたかのように、音も戻ってきた。
たくさんの雑音に混じって、歓声が聞こえる。

審査員に向かってとっさに「ありがとうございました!」と叫ぶ。
その声は震えていた。


みんなが、同じチームのメンバーが、周りに駆け寄ってくる。
ちょっと恐かった先輩が、
私の頭をニット帽の上からぱーん、とはたいて、
 「よくやった!」
と言ってニカッと笑った。



◆◇◆◇◆◇


緊張したり、何か外からの強い刺激を受けたりして、
「頭が真っ白になる」
ということってあると思いますが、

その先をもう少し突き抜けると、
やがて「真っ白な時間」のようなものがやって来る気がします。

上手く表現できないんだけど、
そしてそう数は多くないんだけれど、
わたしもこれまでの人生で何回か経験したことがあります。

一番記憶に残ってるのは、
大学時代にスキーの大会に出たときのこと。


基礎スキーというスポーツはさほどメジャーじゃないので、
わからない方も多いと思いますが、
ゲレンデの下の方に審査員が何人か座ってて、
選手は一人ずつそこに向かって滑っていきます。
その時の、まあ要するに「美しさ」に点数をつけて争う競技です(合ってるかな・・・)。


正確に言うと、種目、女子緩斜面小回り。
わたしの一番好きな種目で、
ここで点数とらなきゃいつとるの、という場面でした。

わたしはビビリで、スピードを出すのがいつもいつも苦手だった。
でも多少は加速をつけないと格好がつかない。
もう転んでもいいから、自分の限界速度のちょい上でいこう・・・

と決めてのぞんだ本番。

何点とったんだかさっぱり覚えてないけど、
とにかく転ばなかった。
どんな風に滑ったのかも完全に忘れたけど、
自分史上最良の滑りだ!と思ったことは覚えてる。



そしてあの時の、不思議な感覚・・・。



全ての物音が静まり返り、自分の呼吸だけが聞こえて、
世界に一人だけ取り残されているような気がした。

「真っ白な時間」としかたとえようのない、あの瞬間のこと。

今でもこうして文章にできるくらい、ありありと覚えています。


たまに、第六感というか、
いわゆる他人のエネルギー的な物を見分ける力の強い人に出会うと、

「頭、疲れるでしょう。
 寝てても起きてても、ぐるぐるぐるぐる、
 あなたは思考が止まらないのよね。」

というようなことを言われる場合があるのですが、
ああいう瞬間は、それが全てストップするんですよね。

何と言うか、
本来の生命の力を使って、
自分の中心に戻れるような・・・そんな感覚。


もっと単純に言えば、「集中」とかってことになるんでしょうかね。

つい先日、合気道の昇級審査を受けたときに、
あの時の感覚が少しだけ甦ってきたので、なんとなく書いてみました。

合気道の場合は技の受けをとってくれる人が目の前にいるんだけど、
それでも「この世に自分しかいない感覚」みたいなのが湧きます。
先生と自分しかいない感覚、のほうが正確かもしれないけど。



まー、大勢の前で何か審査されたり、司会したり、発表したりとかね・・・

緊張するし、ドキドキするし、恐いし、嫌なんだけど、
あの妙な静けさは、ちょっとクセになるんですよね(笑)


そういう瞬間を一つでも多く持つことが、
人生を豊かに生きるということなのかもな、
と思う今日この頃です。



2013年12月8日日曜日

ご機嫌な法則




大学で東京に出てきてからほぼ10年。

その間に4回の引越しをして、
その度にいろんな物をけっこう大胆に捨ててきました。

良いか悪いか、そんなわけで、
「昔から持っていて今でも手元にあるもの」
というのが極端に少ないのです。


特に、本。


買っては売って、買っては捨てて、
時には本棚さえ買って処分してまた買って、
ラインナップ総入れ替えくらいのリニューアルを繰り返してきました。


そんな中で、一冊だけ、ずっと持っている本があります。


おそらく中学三年生くらいの頃に、
地元の本屋「オークス」(その後何年かして潰れてしまった)で、
自分のお小遣いで買った本・・・


ご機嫌の法則100
ディスカヴァー21、1996年第3刷


今なら自己啓発本のコーナーに並ぶような類の本かもしれませんが、
当時はまだ自己啓発なんて言葉は出回ってなかった・・・(たぶん)。


ページを開くと、ちょっぴり不思議な言葉の数々が、
素朴なイラストと一緒にぱらぱら並んでいます。


 この人生が、ご機嫌なものでありますように。
 努力しないでも、ご機嫌でいられますように。
 もし、来世というものがあるのなら、
 そのときこそは、まじめに生きますから。


 もちろん、きみは、特別な人です。
 でも、誰かより、特に特別なわけじゃない。


 「わたしとしたことが!」だって?
 その「わたし」って、いったい、誰なんだ!


などなど・・・
繰り返し読みすぎて、表紙はぼろぼろになり、
ほとんどの言葉は覚えてしまった。

その言葉の一つひとつが、
友達との関係やら、片思いやら、自分への自信のなさやら、
いろんなことに悩みの尽きなかった、
思春期のわたしをすくい上げてくれたのでした。

しかも、その後も何年も、いや今でも、
その効力は続いていきました。

何か気持ちがしんどくて苦しくなった時、
ふと頭にある言葉が浮かんで、
少しだけほっとして、気分が柔らかくなることがあります。
それは大体いつも、この本に書かれた彼らの役目でした。



自分にとって、ちょっぴり特別な本。



いつしか芽生えたのは、
「いつかこの本を書いた人に会ってみたいものだ・・・」という思い。



本のあとがきを読んで、
ディスカヴァー21という会社が広い東京のどこかにあって、
本を書いたのは「コーチング」ということをしている人だ、
ということを中学生の私は知りました。

いつか直接話を聞いてみたいな。
コーチングって、知らないけど、どんなものかな。

何となく、そう心のどこかでずっと思っていたんです。



・・・大人になるって、すごいですね。



ひょんなことから、仕事上の繋がりで、お会いできてしまいました。
出版社ディスカヴァー・トゥエンティワンの代表取締役であり、
コーチ・エィ代表取締役会長。
日本におけるコーチングの第一人者とも言われる、伊藤守さん。

まあ、講演会を聞きに行っただけなんですが、
すごい至近距離だったからドキドキしました。

こんなに簡単に会えちゃっていいのか、っていうくらい呆気なく。
その名前に憧れを抱いた会社も、歩いていける距離にあったことを知る。

伊藤さんは、予想どおり、小柄で優しげな目をした、人のよさそうなおじさんでした。
言ったらあれだけど、普通のおじさん(笑)
でも、普通のおじさんは、あんなに無防備にニコニコしないですね。
それに、ぴっかぴかのいい靴をはいてました。

そして、話し方が、本の書き方と一緒でした。
それだけで、なんだかすごく嬉しかった。


「人は思っていることを口にしているのではなくて、
 口にしない限り何を思っているのか気づかない生き物なんです」

とか、
やっぱりわたしの好きな感じのことをたくさん話されていました。

今にして思えば、コーチングの考え方だったのかも。私が惹かれていたのは。。


今年は本当に、これまでずっと会いたかった人にうっかり会えてしまう機会が多くて驚いています。
夢が叶うっていうのはそんなものなのかもしれないですね。
自分がブロックをかけさえしなければ、案外あっさり叶ってしまうもの。



最後に・・・

そういえば、昔から一つだけ、
この本に書いてある言葉の中で、
どうにも意味の分からない言葉がありました。

耳ざわりはいいんだけど、
よくよく考えると、何言ってんだろ?みたいな。

最近になってようやく、なんとなく、分かってきた気がします。

別の言葉で説明しようとすると難しいし、
つまらなくなるからやめておきますが・・・
 
大事なことはいつもシンプルで、シンプルすぎて、
気づくのに時間がかかります。



『神さまがあなたを探しています。
 あなたのほうから、あちこち探し回らないでください。
 神さまと鬼ごっこになってしまいます。』





2013年12月2日月曜日

小さな頃の唄






小学生の頃、作文の授業がとても好きでした。

机の上にまっさらな作文用紙が置かれると、なんだかワクワクして、
先生に書いていいよ、って言われる前に鉛筆を持ってしまうくらい。

何も書きたいテーマなんかなくても、
ひとたび鉛筆を握ればスラスラと、
わたしならば原稿用紙をキャンバスに、
無限のお絵描きができる!・・・ような気がしていました。


「得意な事があった事 今じゃもう忘れてるのは
 それを自分より 得意な誰かが居たから」
「大切な夢があった事 今じゃもう忘れたいのは
 それを本当に叶えても 金にならないから」


そんな歌がありますが、まさにそんな感じで、
大人になるにつれてだんだんと、
そんなワクワクは忘れていったのですが・・・。


でも、最近一つ思い出したことがあります。

そういえば、なんで作文の授業が好きになったのか。

1年生か2年生か、とにかく小学校に入ってすぐの低学年の頃。
読書感想文で賞をとったことがあったんです。
よく覚えてないけど、県かなにかで表彰されて、
親も喜んで、わたしも嬉しかった・・・。


たぶん、そこで、
「できるじゃん」
て思ったんだと思います。


書くのが好きで、書いたら褒められる。
じゃあもっと書こう、と。

比較する相手も、証明する必要もなかった。
ただただ好きで、得意だったあの頃。


そのきっかけとなった読書感想文、
そこで取り上げた本の内容はすっかり忘れてしまいましたが、
タイトルだけは何となくずっと覚えていたんです。

で、

これが・・・

最近ふと気になって、
あらすじを調べてみたら・・・

ちょっとびっくりする内容でした。

ご存知の方も多いかもしれませんが、
少しだけ紹介させてください。
『きいろいバケツ』
という本です。

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(あらすじ)

主人公のきつねの子は、ある日、川の近くで黄色いバケツを発見します。
友だちのくまの子、うさぎの子にたずねてみても、誰のものなのかわかりません。

きつねの子は、そのバケツを気に入った様子。以前から、こんなバケツがほしいと思っていたのです。

そこで、一週間たっても持ち主が現われなかったら、きつねくんのものにしよう、ということを、くまの子、うさぎの子と決めます。

毎日毎日、きつねの子は、その黄色いバケツと一緒に過ごしました。

バケツをじっと見つめたり。

魚つりのまねっこをしてみたり。

雨が降った日は、雨に降られるバケツをかわいそうだと思ったり。

バケツに名前を書くまねをしたり。

バケツが風に飛ばされて、なくなってしまう夢をみることもありました。

バケツを見つけてからちょうど一週間後、結局バケツはなくなってしまいます。


このあとの、本文です。
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「ざんねんだなぁ。」
くまの子がきて、言いました。

「きのうは、ちゃんとあったのにねぇ。」
うさぎの子もきて、言いました。

「もちぬしがとりにきたのかな。」

「だれかが通りすがりにひろっていったのかしら。」

くまの子とうさぎの子が、くちぐちに言いました。

「どっちでもいい。」と、きつねの子は、思いました。

たった一週間だったのに、ずいぶん長いこと、黄色いバケツといっしょにいたような気がしました。

その間、あの黄色いバケツは、ほかのだれのものでもなく、いつもじぶんのものだったと、きつねの子は、思いました。

「いいんだよ、もう。」

きつねの子は、きっぱり言うと、顔を上げて、空を見ました。
青い青い空が、どこまでも広がっていました。

「いいんだよ。ほんとに。」

きつねの子は、もういちどそう言うと、くまの子とうさぎの子にむかって、にこっとわらってみせました。
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・・・という、お話だったのです。


きつねくん!!! (つд⊂)


めちゃめちゃいい話じゃないですか(泣)


そして深い・・・。

青い青い空の下で「いいんだよ」って笑うきつねの子。
その情景がまるで目に浮かぶよう。
その顔は寂しげで、でもきっとすがすがしい、爽やかな微笑みを浮かべているんだろう。


率直に言うと、
この本を選んだ自分、ぐっじょぶ。
と思いました(笑)

本なんて、候補は他にもいっぱいあったはず。

その中で、どうしてこのお話を選んだのか。
そしてわたしはどんな感想を書いたのか。
肝心なことは、何一つとして思い出せません。
自分のことなのに分からない・・・。


でも、たしかに過去のどこかの私がこの本を選んで、
何かを感じた。
一生懸命きもちを言葉に換えて、
何かを伝えようとしていた。


その心の足跡というか・・・
エネルギーのかけらのようなものを、
このあらすじを改めて読んだ時、少しだけ、自分の中に感じました。


その時ふと、もう何年も聞いていない、
けれどある時期にすごく好きだった、歌の一節がよみがえりました。

気づいたら口に出して歌ってた。



彼は現代の中毒者
うつろな目をして笑って
小さな頃の唄を忘れようとする
だけど忘れないであなたは生きてる
勇気の出る唄を一緒に歌おう

(BUMP OF CHICKEN 「ナイフ」)



歌詞の意味を改めて考えたことがなかったけど、
小さな頃の唄っていうのは、
誰の心の中にもある「消えない絵」のようなもののことかも。



あなたの小さな頃の唄は、どんなのですか?
覚えてますか?


忘れてたって別に生きていけるし、困らないんだけど。
もしも思い出せたら、一緒に歌えるかも。



*冒頭に書いた歌詞は、同じくバンプの「才悩人応援歌」という曲です。