2013年9月16日月曜日

ハーフ ザ・マン




この3連休でセミナーに参加していました。
内容についてはいずれ機会があれば別途書きたいと思いますが、
まあ仕事関係のセミナーであることは間違いない(ざっくり)。

直前まで自分が出張に行ってたし、途中で台風もやって来たし、
無事に終わるか少し不安だったけれど、どうにか全日程が終了・・・
したと思ったら、なんかものすごく寂しい。
とっても充実して、楽しくて濃い、嬉しい3日間だったのに、
終わっちゃうんだと思ったら唐突に悲しい。

この感覚が何かに似ているなと思ったら、
子どもの頃、夏休みになると英語塾主催のサマーキャンプに行ってたのですが、
その旅行から帰ってきた時の感覚とかなり近いことに気がつきました。
皆で大型バスに乗って帰ってきて、渋谷のバスターミナルでお別れする時のあの感じ。

いつもは出会わないような人とたくさん出会って(県外の子供とかアメリカ人とか)、
普段ならできないような体験をたくさんして(野外オリエンテーリングにキャンプファイヤーとか)、
でも明日からはまた自分の日常に戻っていく・・・(学校か・・・)

日常はそれはそれで悪くないのだけれど、
それにしても非日常のあの、特別な感覚。
とびきりの宝物になりそうなわずか数日の体験。

似ています、非常に。

そんなわけで結構しんみりした気分に浸りつつ、
連日のセミナー疲れを労うべく、近所のカレー屋へ。

この3日間でうっかりカレーを3回食べてしまった。。
自分の中では、特別な食べ物なのですね。
特に旅行から帰った時には食べたいんですよ。

われながら単純なんだけど、
美味しいものを食べてるうちに寂しさも癒されてきて、
ふと、かなり昔の曲が店内に流れていることに気づきました。


上に書いた、子どもの頃に参加していたサマーキャンプというのは、
大学生がインストラクターとしてボランティアをしてくれていたのですが、
たまたまそこで仲良くなったイントラのお兄さんが洋楽好きで、
まだCDも買ったことのなかった私に色々教えてくれたんですね。
当時の私からしたら、学生なんて憧れの存在以外の何者でもなく、
教わった音楽をすぐにレコード屋さんで借りてきて、
繰り返し繰り返し聞いたものです。歌詞を覚えてしまうほど。

だからすぐに分かった。もうあれから何年も経ってるけれど、
今流れてるのはあの時の曲だって。


ちなみにこんな曲。
「スペース・カウボーイの逆襲」というアルバムに入ってました。懐かしい。。

この歌詞の
「君が僕の残り半分だ」的な、
ツインソウル的な(?)意味合いには正直あんまり共感できないですが、
「僕は昨日まで自分の半分しか生きていなかった」
つまり、これまでは本当の自分自身をフルに生きていなかった…
という意味にとってもいいのかな。だったらいいな。意訳しすぎかな。




今回、身体は東京を一歩も離れていないけれども、
精神的にはあの頃のサマーキャンプと同じくらい、
いやそれ以上に、濃い旅をしてきたような気分です。

それは特別な非日常。
でも、あの頃と違って、もう誰かがキャンプを用意してくれるわけじゃない。
それに、いつも特別に楽しくしてちゃいけないって、誰が決めたんだろう?

これからは、自分で「こっち」を日常にするんだ。
今日からが、そのためにできることをしていく旅のはじまり。



You are my inspiration. thank you...


2013年9月9日月曜日

ユニーク・クローズ






「もし、ある日、会った人全員から”ねえ今日の服、変だね”って言われたらどうする?」

今から何年も前、仲間内でそんな話題になったことがあった。

ショックを受ける。
怒る。
言った相手と絶交する。

いずれにせよ、その服はしばらく(あるいは二度と)着ないだろう。

誰に聞いても、答えは大体同じだった。わたしも同じだった。
ただ一人をのぞいて。


◇◆◇◆◇

ある年の冬、アメリカで働く友人を訪ねたことがありました。
彼女は髪が長くて、スカートとハイヒールがよく似合い、愛らしい顔つき。
学生の頃から、周りの男の子は彼女を放っておきませんでした。
異国の海辺の街で働く彼女はキラキラしていて、ますます魅力が増したようでした。

今ならわかる。もちろん彼女のそのきらめきは、内面からにじみ出るものだった。
けれど、どうしてか当時、その表面的な美しさばかりにフォーカスして、
私は「そうか、そうだよな…」と勝手に納得していました。
女の子は女の子らしく。男の子が好きそうな格好をしなきゃ、愛されない。


旅行に前後して、真っ白なダウン・コートを手に入れました。
女の子らしい(と、勝手に自分で考えた)コート。今までの自分なら絶対に買わない色。
好みじゃないけど、大勢に好かれそうな(と、やっぱり勝手に考えた)デザイン。
好みじゃないから、あんまりお金をかけるのは惜しい気がして、某大手の衣料品店の、しかも安売りセールで買った服。

それでも、自分ではそれなりに気に入っているつもりでした。
だからいつもの仲間との飲み会にも着て行った。それで言われたのがこれです。

「さっきからずっと思ってたんだけど・・・、そこの白ダウン何」

私は突然受けた質問の意図がわからず、こう答えました。

「何って、私のですけど」

相手はなおも尋ねました。「もしかしてそれ、着てきたん?」
私はうすうす嫌な予感を覚えたけれど、今さら引き下がるわけにもいかず、

「いいでしょう?〇〇で買ったんです。しかも、安かったんですよ」

すると相手は急に真顔になって、

「それはないやろ」

関西人でした。


一瞬絶句した彼は、呆れた顔をして、かと思ったら吹き出しました。
「しかも、安売りで買ったって得意そうに・・・本気か」

私は笑われてることに顔が赤くなって、しまった、と思いました。
しまった、見つかった。
なんとなく、言われたことの意味がわかったのでした。

「ないですか」

恐る恐る、でも期待を込めて、言った。「これ、ないですかねぇ。」
「全然似合ってないで」期待どおりのダメ押しが返ってきました。

その時の、図星をつかれた猛烈な恥ずかしさ。
と共に感じた、嬉しさとほっとした気持ちとを、今でもよく覚えています。
ああそうか、私は本当はずっと、誰かにそう言ってほしかったんだ、
と、そこでようやく自覚しました。


私の白ダウンを全否定した関西人は、自分こそ、しょっちゅう奇抜な格好ばかりしていました。
辺鄙な古着屋の隅っこの方のコーナーにある、さらに隅っこのもはや誰も選ばないような服。
店員すらその存在を忘れてて、買おうとしたらびっくりされるみたいな・・・
(と言うのは私の勝手なイメージだけれど)そんな服を愛しそうに着ていました。
しかもくやしいことにまた、それがよく似合ってた。
誰も彼の格好をばかにしないし、たとえそんな人がいたとしても、
彼は嬉しそうなのでした。ふふん、変だろう、と言わんばかりに。

そんな彼はまた、実は前々から、私の格好について褒めてくれていました。
センスがあるな、お洒落やな、と独り言のようにさり気なく、ぼそっと呟いてくれました。
言っておきますが、特に奇抜な格好もしていなければ、
ファッション誌だってほとんど読んだことのない私です。

田舎育ちで、目立たなくて、真面目で、人の目を引く顔立ちでもない・・・
昔から、そんな自分に全然自信がなかった。自分をお洒落だと思ったこともなかった。

このままでは、ありのままの自分ではだめな気だけがずっとしていました。
誰かに愛される自分に変わらなければいけないと、切実に思っていました。
だから、せめて人に好かれそうな服を着てみよう。
そう思ってしまった。
自分がその服を好きかどうかなんて、どうでもいいんだ。
そう思おうとした。

言い換えれば、私は私を信じるのをやめようとしていたんです。
自分が嫌で、いっそのこと自分であることを放り投げようとしていた。
なのに、彼は私が投げたそのボールを躊躇なく拾って、手加減なく、
思いっきりこちらに投げ返してきました。

「いや、別に白ダウンが悪いって言ってるわけじゃないで。
その店で買う人もいっぱいいる。それはそれでいい。
ただ、お前がそれを着るのは、違うやろ」
(関西弁が適当ですみません)

なんでセンスがあるのに妥協するのか、なんで自分を貫こうとしないのか。
まるでそう言われたようでした。
褒めてはいなかった。ただ責任をもてよ、と言われている気がした。この自分の人生に。
自信があろうがなかろうが、持って生まれてきたものをなかったことにするなよ、と。

年上だし、友達というとまた少し違う感じがする。もちろん恋人でもない。要は、バイトの先輩。
そんな彼が、他の誰よりも、いや私よりも、私を信じてくれた。
本人は、もちろんそんな意識はなかったと思うけれども。
本当はお洒落が好きだったこと。
実は自分では自分のセンスを愛してもいたこと。
そんなこと一度も口に出して言ってないけれども、どうしてだか認めてくれた変な人。

センスを貫け、適当なところで手を打つな、理由なく自分自身を好きでいろ、楽しめ!
そんなこと一度も口に出して言われてないけれども、
彼と関わったことで、私はもう何回も数えきれないほど、そんなメッセージを受け取りました。


結局、その飲み会の後、一度も着ることのないまま、私はその服を処分した。
そう言えば、この服着てるとき、全然楽しくなかったな・・・と、捨てる時に思いました。

それからもう何年も経ちますが、未だに一緒に飲む度にその話題になり、
「白ダウン」という単語が出るだけでもれなく彼は笑います。
一体いつまでからかうつもりなのかと私はふくれて、でもこっそり、とても嬉しい。


◇◆◇◆◇


「もし、ある日、会った人全員から”ねえ今日の服、変だね”って言われたらどうする?」

唯一の回答はこうでした。

「この俺のセンスがわからないなんて、なんて可哀想な奴らなんやろう!
 …と思いつつ、それはそれで嬉しい」

だからがんがん着続けるよ、と笑って。

「いいか、自分が好きな格好をしてたら、自分が好きそうな奴が寄ってくんねんで。
 だから、自分が本当に好きな格好をいつもしとけ、それでいい。」
(やっぱり関西弁が適当)

うっかりあの時の白ダウン的な思想に落ち入りそうな時、
つまり、他人の目を気にして何かをあきらめようとしたり、自分を信じられなくなりそうな時、
そんな彼の言葉が頭をよぎります。

そして私ももれなく笑ってしまう。
もうこれからは自分が好きな格好だけしよう。
二度とあんな服、あんな楽しくない服は着ないぞ、と思いながら。



◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇


白ダウンを持っている方、気分を害されたらごめんなさい。
ていうか、もし万一持ってたら、害されますよね…。ごめんなさい。
なんというか白ダウンはあくまでただの象徴なので、
大目に見ていただけると、ありがたいです。
(わたしが買ったの、安物だし。)

この話はもしかしたら共感は得られにくいかもしれないけれど、
それでも誰か一人の心にでも届いてくれたらいいな、と思って書きました。

「人間は、本当に自分のことをわかってくれる人が一人でもいたら、生きていける」

と、カウンセリングを教えてくれた先生が前に言っていました。
そういう話だと言ったらさすがに言い過ぎだと思うけれど、
ちょびっとだけ、そんな気持ちで書いてみました。

自分の好きな格好をするということは、
自分を大事にする第一歩だよな・・・と、今になってしみじみ思います。

2013年9月5日木曜日

得意と苦手のウソ



先日、あるところでこんな話を聞きました。


「得意だからってやらなくてもいいし、
 苦手だからってやめなくてもいい。」


どういうことかと言うと、まあ文字通りなんですが、

たとえ適性があると言われたからって、
それをする必要はないし、好きになる必要もない。
でも、下手でも自分がやりたいと思うことなら、
絶対にやり続けよう。

ということ。

言われてみたら私もははーん、と思い当たるところがあって、
以前に経理の部署にいたのですが、
自分では正直言って、その仕事があんまりピンとこなかった。

経理にいると伝票を通じていろんな部署の人と話すから、
そういうのは好きだったんです。
いかに怒らせず、プライドを傷つけず、不備のある領収証をつき返すか(笑)
相手によって一番効果的な対応を考えたりするのは、好きでした。

けれど、本当に肝心の経理的なこと・・・
簿記や会計処理の知識を身につけたり、財務諸表を読み込んだりするようなことが、
どうしても好きになれなかった。面白いと思えなかった。
もちろん、そこにいたらやらなきゃいけないから、やるんですが。

そんな気持ちとは裏腹に、もともと細かい作業が好きだったこともあり、
正直なところ、なぜか経理課の上司には気に入られていました。
いろんな人に、向いてるね、適性があるね、とも言われました。
だから、これでいいんだと思っていたわけです。

得意なことなんだから、やっていればいいんだ。
たとえそこまで好きなことじゃなくても・・・。


ん?

ちょっと待てよ。それっておかしくない??


そう思ったのはつい最近、冒頭の話を人に教わってからです。
驚くことに、今まで疑問にすら思ったことがなかったのです。


もちろん、好きなこと=得意なこと、なら何の問題もないわけです。
苦手なこと=嫌いなこと、ならね。
でも往々にして、面白いほど、逆の場合が多いね。

ここは大事なポイントですが、そもそも、
人間ほんとに興味のないことは、苦手とも思わないそうですよ。
(確かにわたしの場合、建築が苦手だ、とか、イタリア語が苦手だ、とか思わない…)


ないですか?


そんなに好きでもないんだけど、なんか人より出来るみたいだから
(そう他人に言われるから)
何となくやってること。

本当はすごく好きなんだけど、なんか人より上手く出来ないから
(そう自分で勝手に思って)
あきらめてること。


もう一度書いてみよう。


「得意だからってやらなくてもいいし、
 苦手だからってやめなくてもいい。」


そんなわけない?
でも、もし万一、本当にそうだったら・・・
なんだか、ワクワクしてきませんか?

私はします。


まあ、サラリーマンである以上、さすがに部署は勝手に動くわけにいかないけど、
自分で選べることはけっこうあるのかもしれない。


実は小さい頃から楽器コンプレックスがあって、
周りの子みたいに上手くできないから私には無理だ…
とずっと思っているのですが、
本当はギターが弾いてみたいんです。昔から。

絶対、苦手なんですけどね。
でも、やってみようかなあ。
と思い始めました。
今すぐは無理でも、いずれ。

少なくとも、苦手だけれど好きなことをやることを、
自分に許可するだけでも世界は変わるような気がしています。


You are my inspiration. thank you...

2013年9月2日月曜日

ことほぎをはじめます。



今日もこのページにお越しくださってありがとうございます!


このブログの頭についてる、「ことほぎ」…

れっきとした日本語ですが、あまり知られていない言葉かもしれません。

今日はちょっとだけそのお話。
もしかしたらちょっとだけマニアックかもしれないけど、ご容赦ください。


私がこの言葉を知ったのは、
芥川龍之介の小説『老いたる素戔嗚尊』からでした。
いや、もうマニアックだけど、ちょっと待って…

素戔嗚尊=スサノオノミコト、と読みます。
この名前なら聞いたことある方もいるのではないでしょうか。

天照大御神(アマテラスオオミカミ) の弟で、
そのあまりのやんちゃぶりを天照大御神が嘆いて、
天の岩戸に閉じこもってしまった…という話は有名。

ちなみにこの天の岩戸は今の宮崎県高千穂地方に本当にあって、
実は昨年末に行ってきました。
写真は神々が天照大御神をどうしたら岩戸から出せるか、
相談するために集まったとされる「天安河原」で撮ったもの。↓
(この圧倒的パワースポット感、伝わるでしょうか。)



芥川の小説は、そんなやんちゃだったスサノオが年老いてからのエピソードを、
古事記の記述を元に物語化したものです。

どんな物語だったかというと…
(できる限りはしょると)
暴れん坊だったスサノオも妻を亡くし、今は娘と二人暮らし。
そこにある日、一人の青年が迷いこんでくる。
即座に恋に落ちる青年と娘。
スサノオは当然認めず、青年を散々ひどい目に遭わせるが、
最後は手を取り合って逃げていく二人に、大きな笑いを送る。


”それから、——さもこらえかねたように、瀑(たき)よりも大きい笑い声を放った。
「おれはお前たちを(ことほ)ぐぞ!」
 素戔嗚は高い切り岸の上から、遙かに二人をさし招いだ。
「おれよりももっと手力(たぢから)を養え。おれよりももっと智慧を磨け。おれよりももっと、……」
 素戔嗚はちょいとためらった後、底力のある声で祝ぎ続けた。
「おれよりももっと仕合せになれ!」”



私は、芥川なんていう、国語の教科書に載ってるような人物の、
古めかしい上にかなりマイナーなこの話を読んで、
うっかり泣きかけました…。

老いていく父親と、これからの未来を担う二人の姿。
普遍的な人間ドラマがそこにはあって、
しかも最終的に娘たちの幸せを祝うスサノオ、
格好いい。潔い。

ことほぐ、という言葉の響きも美しい。
日本語には元々、言葉そのものに魂が宿る、
その指し示す意味だけではなくて、言葉自体が神聖なもの、
という考え方があったのだろうと思います。

言葉を贈ることが祝うことになる。

なんだかそれって、素敵だなー。
そんなわけで、どうせ毎日使うものなら、
呪いではなく祝いの力を言葉に乗せて届けたいと思っています。


You are my inspiration. thank you...

2013年9月1日日曜日

ブログをはじめました。


このページにお越しくださってありがとうございます!

本日から新しいブログをはじめました。


よくありそうでいて、考えてみるとどうして起きたのか不思議なことや、
なかなかなさそうで、意外によくあるような当たり前のこと。

ささやかな日常を、ゆっくり柔らかに綴っていけたらと思っています。


よろしくお願いいたします。


You are my inspiration. thank you...