2013年10月28日月曜日

とむらいエッセイ(WFP編)



ここのところしばらく、ブログの更新をしておりませんでした。。

出張続きであまり家にいられなかったのもあるし、
現実の変化の流れがあまりに早くて、文章にしているひまがなかった…
あまりに色々なことが起きすぎてる、というのも正直なところです。


が、それでも、実は色々書いてるのです。
本日はその内の一つをご紹介したいと思います。


実は、少し前に「WFPエッセイコンテスト」というものに応募しました。

WFPとは、特定非営利活動法人。
飢餓のない世界を目指して活動する国連の食糧支援機関…だそうです。

そのWFPが飢餓の問題に関心をもってもらうことを目的に、エッセイコンテストを展開。
「お題:給食(お弁当)の思い出」というエッセイを広く募集していました。

興味のある方、詳しくはこちらのHPをどうぞ。

なんとなく、書くことへの熱意が高まっていた頃だったので、
よし、やってみよう!と、力試しのような気分で申し込んだのです。

10月まで、ドキドキして結果を待ったけれど、、
箸にも棒にもかからないとはこのことでした。

まあ、応募1作品ごとに給食1日分(30円)の寄付になるということなので、
それがせめてもの救いでした。


というわけで、そんな情けない話なのですが、
それでも自分なりに結構がんばって書いたので、
このまま日の目を見させないのも可哀想な気がして、、

よかったらわが子(ボツエッセイ)を見てあげてください。よかったら。
800字なのですぐ読めます。

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題名:生きるために食べる日

 高校生の頃、お弁当を食べることをすごくためらった日が一日だけある。きっかけは、国語の教科書だった。
 先生の話にも飽きてきて、こっそり教科書をめくっていたある日の授業中のこと。一風変わった文章が目に入り、有名なアニメ映画の原作だとじきに気づいた。野坂昭如著、『火垂るの墓』だった。
 まるで句点がなく、一文が異様に長い独特の文体。文字だけで描かれているにも関わらず、その短編小説は凄まじい疾走感で戦争の悲惨さを伝え、当時の生々しい情景を私の目前に浮かび上がらせた。そこには生きるために盗み、叩かれ、容赦なく飢えに襲われる子供たちの姿があった。気づけば授業が終わっても、何かに取り憑かれたかのように読み続けていた。そしてお昼の時間になった。私は、しばらくお弁当の蓋を開けることができなかった。
 小説は主人公の清太が駅構内で一人死ぬところで終わる。原因は彼の妹と同じ、栄養失調による衰弱死。幼い兄弟の一生を思えばあまりに悲しく、涙も出なかった。いっそこの指の肉を食べさせてやろうか、と寝ている妹の節子を見つめる清太。もしもこの私のお弁当一つ、食べさせることができたなら、二人とも死なずに済んだのに…本気でそう思った。親に守られ、何不自由なく暮らす私がこのお弁当によって得ている生は、はたして彼らのものより重いのだろうか。ちゃんと生きているのか、私は。思えば思うほど、目の前の食事に手をつけがたかった。
 結局、お腹は空くし、昼休みには限りもあるし、そのお弁当はいただいたのだけれど。それが現実。それでも、どうせ食べるならせめて感謝していただこうと思い、普段以上にじっくり味わった。いつも通りの味だったが、そうか、人間は生きるために食べるんだな、と不意に強く思った。そこに感動とか感慨というものはなく、ただそれが真実だと思った。あの時の強烈な印象を、私は未だに忘れない。
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ボツエッセイ。
自分が体験したことでもないし(名作の力を思いきり借りている)、
浅かったよなー…。
きっとだめだった理由は色々あるのでしょう。
それでもこの手で生み出した、可愛いわが子。
お母さんはちょっぴり傷ついたけれども、前へ進みます。。

これに懲りずにいろいろ書いてみようかな、と思ってます。