2014年6月25日水曜日

使ってんのか、使われてんのか?





魔法みたいな沖縄への弾丸旅行から帰ってきて、一つ気づいたことがありました。

実は私、昔からSNS好きで、
最近は何かっていうとFacebookに投稿していたのですが・・・


あれ?なんか、別に書きたくないな??

書きたくないっていうか、書く必要を感じない?


綺麗な景色とか、特別な体験とか、
美味しいもの食べただとか友達に再会しただとか、
これまで本当に何かあっちゃー書いてたんですけどね、
それで「いいね!」とかコメントをちこちこチェックしてはニヤリとしてたんですけどね(笑)、
なんだか不思議と、いつもの気分にならなかったんです。


それで、気づきました。



ああ、これが、心から本当に満足するっていうことなんだ・・・。



満たされるってこういうことなんだ・・・。



頭のてっぺんからつま先まで、芯から幸せな気分が満ちると、
他人の承認とか、反応とか、全然いらないものなんだ。


そういう目で、馴染みのページを開いてみると、
Facebookは少し、今までとは違う見え方をするようになりました。

笑ってる写真も、面白そうな文章も、
怒ってるコメントも、悲しみの表情も、
どことなく、同じメッセージを発している。


「私を見てよ」

「私の話を聞いてよ」

「私、頑張ってるよ」
 
「ねえ、私を認めてよ」

愛してよ・・・


・・・いえ、いえ、
決して、心底決して、
Facebookに投稿してる人のことを貶めるつもりはありません。
ていうか、私もしてたし。今だって使ってるし。これからだって。

ただ、何となくそう感じたんです。

寂しいな、と思いました。


ありのままでいいはずなのになあ。
誰かと一緒にいなくても、どこかに行ったり特別な物を食べたりしなくても、
そんなに声を張り上げなくたって、あなたのこと、知ってるよ。
十分がんばってて、魅力的で、特別な存在だって、わかってるよ。


そういう声が、届かない。

いいね!とコメントを知らせる赤い文字に惑わされて、
あの青い画面いっぱいに、寂しい気持ちがただただ増幅していくようだ。


そんな気がしてきてしまった頃に、
Facebookについて、ある知人がこんな風に言いました。


「あれは、コミュニケーションするための道具なのか、
 それとも我々はコミュニケーションさせられてるのか、
 どっちなんでしょうね・・・。」


それを聞いてすぐに、
伊坂幸太郎の『砂漠』という小説に出てくるフレーズが浮かびました。


「『おまえたちは支配されてるのか?それとも命令してんのか?おまえたちは、前進してんのか、それとも後退してんのか?』そう言ってたでしょうが。それに対して、俺たちは、前進してるって言い切れますか?」

(伊坂幸太郎『砂漠』実業之日本社、26頁)


支配されてるのか?それとも命令してんのか?
前進してんのか、それとも後退してんのか?

私たちは、道具を使ってるのか?道具に使われてるのか?


自信、ないな・・・。


そう思った時、
いっそのこと、Facebookをやめようか、と迷いました。
正直なところ、今も迷っていますが。笑

そもそもね、そんなに人の近況知りたいのか、私。とか、
1対1では決して会うこともないであろう人と「繋がって」、
これほんとに楽しいのかな?とか、
いろいろ考え出すとキリがないんですよね。

でもまあ、便利なこともあるし、、と中途半端な私は、
とりあえずこのブログをFacebookに載せることだけやめて、
今までよりちょぴっとだけ遠回しに眺めるようになりました。 はは、微妙。


でも、実はそれさえも少し勇気の要ることだったのです。
それだけ使われちゃってた、ということなのでしょう。

そんな私に行動を起こすきっかけをくれた、
合気道の師範の言葉を最後に紹介します。
 

気持ちを透明にして、宇宙から与えられた心のはたらきを邪魔しないようにしろ。


あ、これ使ってたら透明にならないや、
と気づいたのでした。


もちろん、お仕事で使われてる方は、また別の話だと思います。
というか、趣味で使ってても、いいんですよ。個人の自由です。

あくまで私の場合の話でしたが、
投稿をやめたら、いちいちチェックする時間も減って、
なんだか時間が空きました。
空いた時間を使って、自分と繋がってみたり、
愛の歌を歌ったりしてみようかな、と思います。



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